2017年7月21日金曜日
アメリカ暮らしには鈍感力が必要?
最近立て続けにあった不快、というか悲しい出来事。
食器を買おうと入った近所のとある小さなお店。
店員は年配の白人女性。偶然にも私以外のお客さんが白人ばかりだったので気づいたのだが、私のことを完全に無視していた。気のせいと思いたかったのだけど、まるで私がそこに存在しないかのような態度に悲しくなって、手にしたお皿は買わずにお店を出た。
アパートのロビーでエレベーター待ちをしていたある夕方。
私たち夫婦と、同年代くらいの白人男性、そして従業員のメキシコ人が同じ空間に居合わせた。エレベーターが来ると、従業員であるメキシコ人が先に乗り込んでドアが閉まらないように押さえてくれている。ありがとうと声を掛けて私たちも乗り込む。しかし、白人男性は乗ってこない。それどころか、偶然見えてしまった彼の表情は苛立ちを全く隠さない苦々しいものだった。
私からの一方的な視点・感じ方だから、相手からしたらそんなつもりはなかったのかもしれないが、これがアジア人差別(=アジア人とは一緒の空間にいたくない)なのだなと直感的に感じた。
食器店の女性店員も、一緒にエレベーター待ちをしていた男性も、もしかしたら過去にアジア系の誰かに嫌な思いをさせられたことがあるのかもしれない。その経験が彼らにそんな振る舞いをさせてしまっているのかもしれない。
などとなるべく良い方向に考えて、自分の中のもやもやを打ち消したかったのだけど、今回はなぜかできなかった。
シカゴに来てからこれまでにも似たような出来事はあった。
例えばスーパーのレジで。Helloとこちらから挨拶しても無視されたり、クスリと笑われたり。でも当時はまだシカゴに来て間もないころだったので、私にも旅行者のような雰囲気があったり(つまりはよそ者、一見の客と思われたのだと思う)、きっと挨拶自体にも自信なさげな気持ちが表れていたのだと思う。だから仕方のないこと、と水に流すことができていた。
更にさかのぼれば。
過去AirB&Bで部屋を借りるのにも散々苦労した経験があった。予約は空いているのに理由を教えてもらえることなく断られ続ける。あれはなかなか辛い経験だった。
実際のところ、今回シカゴに来る前に一番不安に感じていたことは言葉の問題でも食事や体調のことでもなく「マイノリティとして生活すること」だった。これはずっと日本のなかで生活していたら絶対に分からないだろうし、旅行で数日過ごしただけではなかなか気付くことができない感情だろう。
言わずもがな、アメリカの社会には見えないピラミッドが存在する。そのことを頭に置きながら行動したり発言したりしないと白い目で見られたり、更にはアジア人の印象をもっと悪くしてしまうのではないか。漠然とそんな不安に取りつかれていた。トランプ氏が大統領になったことも少しは影響しているかもしれない。
しかし、こればっかりは仕方のないことなのだ。私は私らしくいつものように歩んで行こう。相手の感情の問題なのだから。そう思えるまでに2週間くらいかかってしまったのだが、ある時ふと分かった。そもそも自分が差別されたことを「気が付かなかったこと」にしてしまえばいいのだと。
確か少し前に「鈍感力」って言葉、流行っていなかったっけ?
そうそう今こそ持つべきものは鈍感力。そう思えたら、もう一度あの食器店にも行けるかもしれない気がしてきた。私がよそ者であることはずっと変わらない事実だから。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿